熊本城紹介About Kumamoto Castle
城内紹介
天守閣ゾーン
大天守と小天守が並び建つ、熊本城。明治10(1877)年に西南戦争開戦直前の火災により大小天守ともに焼失しましたが、昭和35(1960)年、鉄筋鉄骨コンクリート造りで再建されました。平成28年熊本地震では、最上階の瓦や鯱瓦の落下、地下室石垣の崩落などの被害がありましたが、震災復興のシンボルとして最優先で復旧作業が進められ、令和3年(2021)3月に完全復旧しました。大天守は外観3重、内部は地上6階地下1階建て。最上階からは、熊本市内や遠く阿蘇の山並みを見渡すことができます。
天守閣
熊本城の天守閣の特徴は、四面に配した千鳥破風(ちどりはふ)と最上階の南北につくられた唐破風(からはふ)と呼ばれる建築様式です。「御鉄砲御間」や「御具足之御間」、「御矢之御間」など戦いの道具にちなんだ部屋名がつけられており、江戸時代には武具などが納められていました。小天守の石垣の上には忍び返し(しのびがえし)と呼ばれる敵の侵入を防ぐ鉄串が設置されるなど、細かなところに戦に備えた仕掛けがありました。それらを探して見るのも、熊本城の楽しみ方のひとつです。
本丸御殿ゾーン
絵図・古写真や古文書、発掘調査で出てきたものをもとに、建築当時の趣を復元した本丸御殿。熊本城築城400年を記念して平成20(2008)年、往時の雰囲気を体感できる、絢爛豪華な建物として完成しました。建築方法など、築城当時の技術が研究され、できる限り地元の材料で、地元の職人たちの手で復元が実現されました。
平成28年熊本地震では、「昭君之間」の床が沈下し、各広間の壁が剥がれ落ちるなどの被害がありました。※現在はお入りいただくことはできません。
本丸御殿大広間「昭君之間」
華やかな大名文化の雰囲気が漂う本丸御殿大広間のなかでも最も格式が高いのが「昭君之間」です。鉤型の上段を持つこの部屋の壁には、狩野派の絵師によって中国前漢の元帝の時代の悲劇の美女「王昭君」の故事が描かれ、天井には四季折々の植物が描かれていました。
闇(くらが)り通路
本丸御殿の床下には闇り通路(くらがりつうろ)と呼んでいる石垣でできた地下通路があります。地下通路は、日本全国の御殿建築のなかでも異例のもので、御殿への正式な入口も地下にあります。熊本城の防衛を知る見どころのひとつでもあります。
平左衛門丸ゾーン
天守閣西側の曲輪(くるわ)は、かつて加藤平左衛門(かとうへいざえもん)が預かったことから、平左衛門丸と呼ばれています。この曲輪には大天守、小天守と並んで「第三の天守」とも呼ばれる国指定重要文化財の宇土櫓(うとやぐら)が江戸時代から現存しています。
宇土櫓
本丸の西北側にある宇土櫓(うとやぐら)は、築城当時の姿を保っている唯一の多重櫓です。3重5階地下1階のつくりで天守に匹敵する規模と構造のため、「第三の天守」とも呼ばれます。明治のはじめ頃までは、他にも4棟の五階櫓(ごかいやぐら)がありましたが、現在は宇土櫓だけが残っています。宇土櫓という名は、宇土城主だった小西行長(こにしゆきなが・1555年-1600年)の旧家臣をこの櫓の近くに置いたことにより、名づけられたという説がありますが定かではありません
平成28年熊本地震では、宇土櫓南側の続櫓(つづきやぐら)が倒壊する被害がありました。
数寄屋丸ゾーン
天守南西に位置する数寄屋丸(すきやまる)。数寄屋丸二階御広間(すきやまるにかいおんひろま)は、かつて、能や茶会、歌会の場所となり、接客の場として使われていました。
平成28年熊本地震では、石垣が一部崩落し、建物にたわみが出る被害がありました。
地図石
地図石とは、数寄屋丸の一画にある切石によって床面や側面、石段を造った半地下の空間です。熊本城の石組みのなかでも特殊な、「切石積み」と呼ばれる方法で築かれています。平滑にした石をすき間なく組み合わせ、床面は地図のようにも見えるということから、地図石(ちずいし)と呼ばれています。1769年頃に描かれた絵図には、「御待合入口」と記されています。「御待合」とは茶会の客が待機する場所で、地図石は茶会に集まる人々の目を楽しませる趣向でした。
飯田丸ゾーン
飯田丸(いいだまる)は熊本城本丸の南側を防衛するための要所で、平櫓(ひらやぐら)や塀で囲まれていました。曲輪(くるわ)内部には井戸のある台所、鉄砲蔵(てっぽうぐら)が設けられていました。
飯田丸五階櫓
熊本城の本丸の曲輪(くるわ)は小さな城のように独立したつくりであることも特徴です。この飯田丸で重要な役割を果たすのが、飯田丸の南西隅にある飯田丸五階櫓(ごかいやぐら)。平成17(2005)年に木造で復元されました。
平成28年熊本地震では、石垣の一部が崩落し、隅石(すみいし)で櫓を支えていたことから「奇跡の一本石垣」と呼ばれていました。
東竹の丸ゾーン
熊本城の東の防衛を担う東竹の丸(ひがしたけのまる)。東竹の丸には田子櫓(たごやぐら)、七間櫓(しちけんやぐら)、十四間櫓(じゅうよんけんやぐら)、四間櫓(よんけんやぐら)、源之進櫓(げんのしんやぐら)、東十八間櫓(ひがしじゅうはちけんやぐら)、北十八間櫓(きたじゅうはちけんやぐら)、五間櫓(ごけんやぐら)、不開門(あかずのもん)、平櫓(ひらやぐら)が並んでいて、いずれも国指定重要文化財です。高石垣の上に建ち並ぶ櫓群は、往時の熊本城の姿を感じさせてくれます。
平成28年熊本地震により、東十八間櫓・北十八間櫓・五間櫓・不開門は倒壊や一部倒壊の被害を受けました。また、これ以外の櫓群でも壁の落下、建物の傾斜などの被害がありました。
不開門
熊本城内で唯一残る櫓門で、国指定重要文化財のひとつです。鬼門とされる北東に位置し、門扉はかつて常に閉ざされていたため、不開門(あかずのもん)と呼ばれています。
平成28年熊本地震では、周囲の石垣が崩れて櫓部分が倒壊する被害がありました。
竹の丸ゾーン
熊本城の南の防衛線である竹の丸。坪井川に面しては重要文化財である長塀(ながべい)があります。
竹の丸には「肥後名花園」があり、震災前は市民の憩いの場となっていました。肥後名花とは、細川家が家臣の精神教育の目的で園芸を推奨したのが始まりです。肥後椿、肥後芍薬、肥後花菖蒲、肥後朝顔、肥後菊、肥後山茶花を「肥後六花」といいます。平成28年熊本地震の影響により、現在はお入りいただくことはできません。
長塀
坪井川に面した石垣上に直線で242mの長さをもつ長塀は、国指定重要文化財です。江戸時代の絵図には10ヶ所の石落しが描かれています。西南戦争の頃に一時撤去されましたが、その後復旧されました。
平成28年熊本地震により、長塀のうち東側80mが倒壊する被害がありましたが、令和3(2021)年に復旧が完了しました。
西出丸・奉行丸ゾーン
西出丸(にしでまる)は、本丸の西に設けられた抑撃と出撃のための防衛拠点で、西・南・北に大手門が設けられていました。中でも西大手門は登城の正式な門とされていました。奉行丸(ぶぎょうまる)は、江戸時代には奉行所が置かれており、熊本藩の政治の中心だった場所です。西出丸の北西と南西の隅にはそれぞれ、戌亥櫓(いぬいやぐら)と未申櫓(ひつじさるやぐら)の二棟が復元されています。加藤神社境内から見上げる天守閣や宇土櫓は見応えがあります。
平成28年熊本地震により、奉行丸西側・南東隅の石垣が崩落するなどの被害がありました。
西大手門
3つの大手門のうち正門とされたのが西大手門(にしおおてもん)です。寛永9(1632)年、肥後へ入国した細川忠利(ほそかわただとし・1586年-1641年)はこの門の前で乗物を降り、肥後54万石を拝領したことへの感謝をこめて深々と頭を下げたといいます。
現在の西大手門は平成16(2004)年に復元されたものですが、平成28年熊本地震により、土台の石垣が崩落し、櫓門が傾くなどの被害がありました。
二の丸ゾーン
二の丸広場は、江戸時代は上級家臣の屋敷が建ち並び、藩校の時習館(じしゅうかん)が置かれた場所です。二の丸広場からは、天守閣と宇土櫓が並んだ姿を見ることができます。
監物櫓(新堀櫓)
監物櫓(けんもつやぐら)は、熊本城の北の入口となる新堀御門とともに通過する街道を制圧していた平櫓で、国指定重要文化財となっています。
平成28年熊本地震により、内外壁の破損などの被害がありました。
二の丸広場
熊本城本丸の西に位置する二の丸は、江戸時代を通じて上級家臣の屋敷が建ち並んでいた場所です。宝暦5(1754)年には、6代藩主細川重賢(ほそかわしげかた)が藩校時習館(じしゅうかん)を開校し、藩士の子弟だけでなく、成績優秀であれば庶民も入学が許されました。時習館は、幕末の思想家横井小楠(よこいしょうなん)や、明治天皇の侍講(じこう)を務めた元田永孚(もとだながざね)、大日本帝国憲法の起草にあたった井上毅(いのうえこわし)など、多くの優秀な人材を輩出しました。
三の丸ゾーン
旧細川刑部邸(きゅうほそかわぎょうぶてい)は、元は子飼にあった藩主細川家の分家である細川刑部家の下屋敷で、平成5(1993)年に城内に移築されました。県指定の重要文化財となっており、全国有数の上級武家屋敷としての風格を感じさせます。
平成28年熊本地震により、邸宅を囲む塀の多くが倒壊したほか、書院・茶室などの建物の土壁の剥落や、柱の傾き、建具が倒壊する被害がありました。
そのほかの見どころ
熊本城のまわりにも、熊本城や熊本の歴史にまつわる見どころがたくさんあります。緑豊かな周辺を、散策してみるのもおすすめです。
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